ひかげ よしたか
日影 良孝
日影さんと所員との対談
父の仕事(青森県 厳島神社)
生まれ故郷・岩手県軽米町の風景
山中湖の蔵座敷
高柳町かやぶきの家
さとみ道の駅
昭和の洋館
ひののあん
循環の家
木造仮設ユニットのスケッチ
木造仮設ユニットのスケッチ
木造仮設ユニットのスケッチ
木造仮設住宅の提案
手のひら太陽の家
----建築を志すきっかけを教えてください。
日影:父が大工(1938年生まれ、71歳まで現役)だったので、子供の頃から建築の道へ、特に大工に自分はなるものだと決めていました。
----なぜ設計の道に進んだのですか?
小・中学生くらいの頃から絵を描くことが好きでした。成長するにつれ、少しずつ現場よりも机の上で建築を考えるほうが向いていると思うようになりました。
(今思うと大工の道に進んでいてもよかったとも考えますが・・・。)
----お父様は社寺を手掛ける宮大工と聞いたのですが。
僕が子供の頃は一般の住宅を手掛ける町場の大工でした。ある時期に大工技術を認められて社寺の仕事を中心にするようになりました。僕は小学生の頃は父の道具を勝手に使って、木で舟や車などを作ったりして道具を壊してばかりいたのですが、中学・高校と部活動(バスケットボール部)に夢中になり、父の仕事に興味を示すことはありませんでした。
----高校卒業後に東京都内の建築の専門学校に進学しますね。
建築の学校に行くことは決めていたのですが、東京へのこだわりは全くありませんでした。ただ幸いなことに、その専門学校で出会った先生がよかったと思います。建築に対する情熱や夢、建築の魅力を教えられました。その先生によって、専門学校の2年間で思考の全てを建築という世界に変えられたような気がします。
----専門学校時代に建築の見学や建築家に会いに行っていましたか?
その先生が、その頃早稲田大学の象設計集団に夢中になっており、紹介されてU研究室を何度か訪ねました。大久保の吉阪隆正さんの自宅にも偶然入ることができて、吉阪氏の奥様の話も聞きました。時間とお金のゆるす限り、建築も積極的に見学にいきました。専門学校時代で特に思い出深い建物は吉阪隆正設計の八王子大学セミナーハウスです。設計する過程での「手」の感触が伝わってきたことが自分の身体に刻まれました。
----専門学校を卒業後に設計事務所に就職しますね。
本当は就職をせずに建築の夢ばかりを描いていたかったのですが、卒業ぎりぎりに担任の先生に紹介された代々木の設計事務所に就職しました(1982年、界設計事務所)。ご夫婦でやっている小さな事務所でした。所長は鬼頭梓の事務所を出た前川系の方。奥様は黒川紀章事務所の出身の方。
2年くらいの短い期間でしたが、所長から建築に対する意思、姿勢を徹底的に叩き込まれました。
----その意匠設計事務所の後に施工図専門の設計事務所に行ったのはなぜですか?
空間を形作る細部の勉強をしたかったのです。その施工図事務所(1984年、AOYAMA設計)では主に大規模なビルや商業施設の施工図の書き方を学びました。その中で、麹町にある医薬品メーカーの本社ビルの工事現場に1年近く常駐させていただいたことが最も勉強になりました。
現場のプロセスや職人の仕事や設計事務所との対応など、工事現場の世界を自分なりに知ることができました。
----1級建築士の資格を取得され、施工図事務所を退職したと聞きました。その後どうされましたか?24歳のときですね。
年長の友人2人に誘われて、設計事務所設立の準備を始めました。(エコデザインオフィス、1987年設立。)このとき、事務所を軌道にのせるために日建設計で出向社員として2年くらい働きました。この日建設計での経験は大変貴重なものでした。主に大規模な再開発や超高層ビルのスタディ模型の制作でしたが、一流設計事務所(一流企業)の組織の在り方、トップに立つ者の姿勢を見ることができ、アトリエ事務所では得られない勉強ができたと思っています。
----日影さんの処女作、「鎌倉の大屋根」はちょうどその頃に設計した住宅ですね。
日中は日建設計で働き、その他の時間を使って設計をした住宅です。「鎌倉の大屋根」の設計の大きなテーマは民家の移築再生でした。建主と共に民家を探しにいくことから始めました。探しに行った地方は建主の恩師(陶芸家・海部公子さん)の縁で、北陸の石川県加賀市でした。
----それまで民家の再生の経験はあったのでしょうか。
民家の再生の経験など全くなく、ましてやそれまで近代のモダンな建築にばかり興味を抱いてきましたし、民家について学校で教わったこともありませんでした。しかも木造住宅の設計の手伝いは、以前勤めた事務所で1棟のみです。まさに見よう見まね。独学で勉強をし、わからないところ、不安なところは岩手の父に聞きました。設計が完了し、着工する段階になっても、日建設計の仕事との両立でした。そのため現場打合わせは夜が多く、大工さんや職人さんたちと現場敷地内に建てられた仮設の小屋(ハンバ)の中で行いました。(職人さんたちは民家を解体した加賀の谷工務店の人たち)。打合わせと言っても酒を飲み交わしながらの付き合いです。そのハンバに寝泊まりすることも少なからずありました。元々僕は職人の息子のせいか、職人同士の中に入っていることに心地よさを感じていたのかもしれません。
----民家の再生の仕事を始めるきっかけとなった処女作「鎌倉の大屋根」は日影さんの建築の道への大きな一歩となりますね。
「民家の再生」というくくられたテーマだけでなく、日本の伝統的な美術や文化、木造技術の継承への思い、日本の壊しては新しいものをひたすら作り続けるスクラップ&ビルドへの疑問などを感じるきっかけにもなりました。「鎌倉の大屋根」の建主と古い民家を探しに山深い集落に何度か足を運んだことも、日本の風土を知るきっかけにもなりました。でもよくよく考えてみれば僕の生まれ故郷の岩手県軽米町は同じような田舎ですし、古い民家は残っていたのですが。
----そして、地道に民家の再生に取り組み始めますね。
「鎌倉の大屋根」と「山中湖の蔵座敷」が“住宅建築”という建築の専門雑誌に取り上げられたことで、様々な人たちと知り合うことができました。その中で“住み継ぎネットワーク”というグループの発足に参加できたことは、活動のフィールドの広がりにつながりました。グループの中心人物には、土岐小百合、藤原恵洋、その他様々なジャンルの人々が集いました。今でも交流の深い加藤雅久さん、高橋大助さんもその仲間でした。“住み継ぎネットワーク”のフィールドワークの一つに、新潟県刈羽郡高柳町との交流がありました。雪深い過疎のまちで、地域おこしの計画も進んでいました。その計画の中にまちに残る茅葺の民家を観光資源にするという事業も含まれており、その茅葺の家の設計を担当させていただく機会を得られました(初めての公共建築)。
----その頃日影さんは29歳くらいですか。知人と設立したエコデザインオフィスから離れますね。
3人の方向性が変わってきたこと、まちづくりという少し広い視野で建築を見つめてみようと思ったことから、都市計画系の人と新しい事務所を設立しました。
1991年にエアクリエイティブを設立。僕は取締役として主に建築の設計、公園内の施設建築物などを担当しました。高柳のかやぶきの家は民家の現地再生1棟、移築再生1棟、新築のかやぶきの民家2棟、計4棟の設計を継続的に4年くらいかけて行いました。高柳町では気候風土、特に積雪への対策、地元の人との交流、公共建築のむずかしさなどに悩みながら長期的に関わった仕事でした。
----公園内の施設建築物で代表的な設計はなんでしょうか?
2つの道の駅の設計しました。茨城県の「さとみ道の駅」(1995年)と静岡県の「宇津ノ谷峠道の駅」(1997年)です。茨城県総和町の文化財の復元「旧茂田家」(1995年)も思い出に残る仕事です。特に「さとみ道の駅」は里見村が林産地であったこと、世界的に有名な芸術家クリストが彫刻の傘を田園に立てた場所であったこと、この2つをコンセプトとして、木造で樹状構造の傘型の建築を設計しました。
----そのような公共工事の他にその頃手掛けた住宅で代表的な家は?
それまでは民家の再生は農家や町屋が中心でしたが、昭和初期の洋館の再生「昭和の洋館」(1995年)は住宅の再生の領域を広げるきっかけとなる貴重な仕事でした。同時に新築の木造住宅を少しずつ手掛けるようになり、金物を一切使用しない貫と落し板を併用した伝統構法の住宅「板倉の家」(1998年)、広い縁側が特徴的な心地良い平家の自然住宅「ひののあん」(1998年)は、その頃の代表的な仕事です。
----その頃から民家や洋館の再生、既存の住宅を自然素材で改修、伝統構法と自然素材で住宅を新築する、など常に「住み継ぐ」という概念で設計をしてきているように見えますね。
エアクリエイティブで建築と都市計画と両輪で仕事を続けてきて6年目の時に僕の設計の考えに大きな楔を打つ古い住宅に出会います(駒込の家)。その住宅は戦後間もない昭和26年建築の数寄屋の住宅でした。JR駒込の駅から徒歩数分の場所で、起伏に富んだ1000坪の敷地には大きな自然の池がありました。建物は主屋、蔵、茶室、待合が池を囲むように建てられ、最初に訪れたときは、ここは横浜の三溪園のようだと錯覚してしまうほどでした。この建物は間もなく壊されマンションが建つということで移築のための実測調査を任されることになりました。1月の寒い時期からアシスタントと2人で延々と実測を行いました。その調査期間は、解体格納される9月くらいまで続けられました。ひとつの建築群に9箇月も通いつめ、冬、春、夏とその家の中で黙々と調査をする日々は、否が応にも数寄屋建築の意匠や材料が身体に染み込ませます。それまでの骨太な民家とは全く異なる繊細な日本建築が自分の体の中に芽生えた時でした。実はこの「駒込の家」の移築のための調査は、会社として受けるには不確定な要素が多く、残す活動として、僕の個人的な活動の色合いが強いものでした。但し中途半端にやれる仕事ではなく、この家に全力を尽くすために、エアクリエイティブから離れることにしました。
----「駒込の家」が日影良孝建築アトリエを設立するきっかけになったのですね。
「駒込の家」の解体格納工事は真木建設の渡辺隆社長(当時。現在は風基建設の社長)にお願い致しました。渡辺社長の師匠である田中文男さんに駒込の家を見ていただいた時に、「死ぬ気でやれ」と強く励まされたこともエアクリエイティブを離れるきっかけになりました(1996年)。
----「駒込の家」で学んだことはなんですか?
建築の細部です。「駒込の家」は建物の棟によって異なりますが、「草」の数寄屋から「真」の書院数寄屋という様々な要素で構成されていました。その全ては意匠中心に設計されており、構造と意匠と生活空間が一致する農家とは建築に対するアプローチが違います。木や左官などの質感、あるいは柱の角の面やチリの寸法が、空間に大きく影響を与えるということが自分の中では大きな発見でした。
----埼玉県川越市の蔵の実測調査もその頃(1998年)に行っていますね。
川越市の蔵のまちの通りに面する屋号「まちかん刃物店」という店蔵です。大切にされている明治時代の蔵を正確に実測調査し図面に残すことで、被災時の修復のための資料にするという目的でした。明治27年に建築されたその店蔵は、外壁や屋根の左官技術が大きな特徴だったので、外壁まわりや屋根面に足場をかけて行う本格的な実測調査になりました。現場での作業およそ1箇月。図面の作成作業2箇月、合計約3箇月かかりきりになりました。今では失われつつある職人の技術に対して文字通り肌で学び接する期間でした。
----先人の技術を将来につなげるための貴重な経験ですね。
確かにそうですが、伝統的な建築やそれを支えてきた技術を無条件に信仰するような世界に迷い込まないように心掛けています。伝統的な建築は地震に対して強いとは限りませんし、その全てが美しいとは限りません。できるだけ自分の眼で見て、時間を越えて同時代的な意識で接することができるように訓練しようと考えています。
----日影さんは「身体性」という言葉をよく使いますが、どのような意味でしょうか。
建築は木とか土とか紙とか、あるいは鉄などを加工して作られています。その加工は職人の手仕事で作られます。職人は実際のモノを運び、触り、切り、加工していきます。素材に直に触れることで、モノの違いを身体で覚え、手の感覚が成長していきます。私たち設計の人間は、そのような場面を経験することは多くありません。僕は設計にかかわる者もモノに触れる努力をしていく必要があると思っています。
----手書きの図面にこだわる理由はそのためですか。
大工は眼で木のくせを読み、道具によって木は加工されます。設計する者も素材をイメージしながら図面を書く訓練をしていく必要があると思います。手の感覚を養うこと。手書きで図面を書く意味はそこにあると思うのです。
----日影さんは自宅である「ずしてい」の改修工事をセルフビルドで行いました。(1998年)
セルフビルドと言っても大工である父と弟の手を借りて行った半セルフビルドです。この「ずしてい」で初めて解体工事、木工事、和紙張りなどを経験しました。「木」の感覚は自分の体の中に確かに植えつけられたような気がします。時間とお金がない工事だったので反省点があまりに多い空間となってしまいましたが。
----「ずしてい」は築25年の中古住宅の改修を自然素材でおこなうという日影さんの「住み継ぎ」の実践の現場でしたね。
古い建具の再利用(同潤会代官山アパートの建具など)、新建材を撤去し自然素材に置き換えるなど、「住み継ぎ」の概念を自分の家でやってみたかったのです。
----日影さんのイメージは「民家の再生」や「日本的」「伝統的」な建築というイメージがありますが、2001年にそれまでのスタイルと印象の違う住宅を設計します。
「チャイハウス」ですね。とても親しい友人の家です。彼女から等々力の敷地を見せられ設計の相談を受けた時に、「伝統的」という言葉が想像できなかった。夫婦のライフスタイルやセンスなどは親しい友人なので手にとるようにわかりました。「愛犬‘チャイ’のような家にしてほしい。」「かわいい家がいい。」というように、伝統的な木組みや素材や工法は、夫婦にとってあまり興味のあるものではありませんでした。編集の仕事をする関係上、建築家の仕事の知識も豊富で、「こんなような家にしてほしい」と、なんと吉村順三の作品集2冊を持ってきました。「チャイハウス」の設計のイメージはすぐに固まり、スムーズに進んでいきました。その設計のプロセスで建主である友人と会話をしていくうちにとても大きなことに気が付きました。居心地、居場所、ひかり、気持ちよさ、食べる、作る、眠る・・・など。住まうことの基本的なことです。この家をきっかけに吉村順三の建築作法を勉強しはじめました。それまでの設計でも家族の生活の場所のことばかり考えていたはずですが、どちらかというと民家から学んできた架構の追及だったのかもしれません。家は構造だけでも素材だけでもなく、ましてや美しさだけでもない。「心地良く住まう」ということも、とても大きなテーマなのだと強く思うようになりました。「住み継げる」家はその条件を満たしている必要があると…。
----チャイハウスは「伝統的な構法」と「心地良く住まう」という2つのテーマの融合を目指しているということですか。
格好よく言うとそうかもしれません。敷地条件から生まれる素直な屋根のかたちと架構とプロポーション、生活から生まれる心地良い空間のゾーニング。それらを調和させるための思考。内部空間からの発想が強いあまりに無理な構造計画になっていたり、構法やデザインや素材に関心の比重が大きすぎることで、生活空間に無理を強いている家にならないように心掛けています。わかりやすい言葉は「調和」でしょうか。それは、骨組みを現わす真壁でも、チャイハウスのような大壁でも、その思考は同じことです。
----日影さんの設計スタイルは、チャイハウスの設計時から「モダン」と「伝統」の2つのスタイルが両立しているように見られますが。
敷地環境、家族の生活の風景、予算、その他の設計条件から読み解かれた心地良い間取り・おおらかな屋根のかたち・プロポーションが美しい断面・素直でシンプルな構造がまず最初にあり、表面の意匠は次の段階だと考えています。表面を着飾っても内部の骨格が美しくないと美しい表面は生まれないと思うのです。ですから「モダン」と「伝統」が両立することは、自分としては矛盾していないと考えています。
----共通する作品で日影さんから感じられるのは、木のぬくもりを感じながら木があまり主張していないように見える、ということです。
木は個性の強い素材です。木はとても好きな素材であるし、木がなくては家のイメージはわいてきません。日影アトリエが設計する住宅は、床面積あたりの使用する木の量は多いほうだと思います(構造的なことですが)。ただ木の存在をなるべく消そうと努力しています。木は生きていますので、見える空間に使いすぎるとその強い個性ゆえに心地良い空間を圧迫してきます。あくまでもバランス良く、白い壁との調和を慎重に考えます。一方で凛とした空間の緊張感も大切なので、線の構成も十分に検討して決定していきます。
----木にも様々な種類がありますが、そのようにして選びますか?
使用する樹種によって空間の表情が変わります。杉や桧や松などの針葉樹。栗やナラやタモといった広葉樹など、樹種の違いによっても空間の質が変化するのは当然ですが、同じ杉でも育成の条件や製材の方法によってもその表情は違います。その選び方は一概には言えませんが、求める空間の表情や質感によって考えます。求める空間の表情や質感とは、家族から感じる雰囲気というか空気感によって考えます。コストに左右されることも当然ありますが、家族に似合う木は何かなぁと考えています。
----設計する上で大切にしていることを教えてください。
やはり「鎌倉の大屋根」の設計後に住み継ぎネットワークの仲間が生み出した言葉である「住み継ぐ」という概念です。古い民家や生活文化を受け継ぎ継承する。それは建築を新しく創る場合でも同じで、住み継げる建築を創ること、時間の流れに耐えられる建築は構造的にも丈夫であることは基本的なことですが、何よりも普遍的なかたちを備えていることが大切ではないかと思います。時代をさかのぼってみても、現在まで大切に残されている建築は、あらゆる要素が調和し溶け合っています。通りすがりの道の中で、見過ごしてしまう程にひっそりと佇んでいるけれども、その家がなくなってしまった時に人々の心に大きな穴が開いてしまうような家。そのような家が住み継いでいける家なのではないかと思います。そしてまた将来移築できるような構造であること、再利用可能な素材や工法を使っていることも、「住み継げる家」の条件だと考えています。
----そういう意味では改修の設計も日影さんにとってとても意味ある仕事ですね。
改修や移築はこれからますます必要性が高まっていくと思います。特に高度成長以降の木造住宅の改修は、改修を前提としない造りをしていますので、高度な技術が求められます。積極的に関わっていきたい分野だと思っています。「住み継ぐ家」「住み継げる家」を創っていくことは、これからの地球のためにも大切な仕事だと思っています。
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あとがき・・・・・
この「日影さんと所員との対談」は、確か2010年ぐらいの対談を文字にしたものだったと思います。つまり2011年3月11日の東日本大震災の前のことです。
2011年3月11日・東日本大震災が発生した時、僕は所員といっしょに自由が丘の事務所にいました。その夜は帰れずに事務所に宿泊し、翌日逗子の自宅に戻ることができました。自宅のテレビをつけてみたら、東北がたいへんことになっていることを知り、動揺を隠しきれませんでした。
岩手県生まれの僕には他人事ではありません。3月のなかばといえ、東北はまだ冬の寒さがぬけていません。まずは家がなくなってしまった家族にせめて寄り添える屋根と壁と床がある空間が必要だとおもい、条件反射的に仮設住宅のスケッチを描き、宮城県の工務店にFAXしました。
3月も終わらないころ、宮城県の建築仲間から連絡があり復興活動のひとつとして、木造の仮設住宅をみんなで提案することになり宮城県の被災地にいきました。被災地の沿岸部でみた光景に言葉にならないほど衝撃を受けました。
自然の巨大さと人間の営みのか弱さ。
なにごともなかったような青い空と静かな海が余計にそう思わせました。
紙のように流され基礎だけが残る家の跡・・・。
人間の価値観は、そう簡単にかわるものではないと思いますが、被災地にかよい、復興支援活動しながら、自分の心の中におおきな断層のズレのようなものができたように思いました。
これから建築をやっていけるのだろうかと・・・。
そう心の中で思いつつも、目の前の大きな課題である「東北の子どもたちのための復興共生住宅」を一刻もはやく完成させることにエネルギーを集中させました。NPO法人日本の森バイオマスネットワークのチームで2012年7月に完成させた復興共生住宅「手のひらに太陽の家」。この建築設計の担当者としての役割を達成することができました。
この子どもたちのための住宅が完成したあと、どこか自分が変わったように感じました。建築をはじめた20代のころから恣意的な建築は好きにはなれませんでしたが、東日本大震災の復興支援活動を経験して、より一層、建築中心の考えから遠ざかった気がします。
文字にしてみると薄っぺらくなりますが、家族や人ひとりへの思いのほうが設計の上になったように思います。
そして・・・ゆっくりと遠くの景色を見ながら設計ができるようになった気がします。
( ひかげよしたか )
追記:
震災間もない時期に
手帳に書いたメモをここに書き移します。
このメモは、家や家族を失った人々には、
居心地のいい木造の仮設住宅が
必要なのではないかと綴った当時のメモです。
「 居場所をつくる 」
人だけでなく、
地球に住む生き物には、
必ず自分たちが築いた
心地良い居場所があるはずだ。
その居場所で、家族という単位で、
食べて、寝て、共に朝をむかえる。
家族という起点があるからこそ、
人との交流もできるし、
仕事をすることによって、
社会貢献もできる。
その起点となる場所が、
家であり、
巣であると思う。
誰にも邪魔されずに、
家族だけで、ひっそりと眠る場所、
そしてさわやかな朝日をむかえ、
あたたかい太陽の光に満ちた
居心地のいい窓辺をつくりたい。
そしてできることなら、
その窓辺は土に接していてほしい。
そしてまたその居場所は、
自然の恵みから生まれた材料でつくるべきだ。
自然の恵みから生まれた彼らに、
囲まれていると、フゥーと息が抜ける。
家族だけで寄り添い、
フゥーと息が抜ける居場所がほしい。
※
人間はひとりでは生きていけないことが、
今回の災害でわかった。
人と人が手をとりあって生きていく。
手と手をつないで生きていく。
つないだ手と手から
希望の光が生まれてくることを願って・・・・。
手のひらに太陽の家。
「手のひらに太陽の家」 設計担当 日影良孝